History
東大阪モノづくりの変遷
2400年の東大阪地域の産業史を、9つの章でたどります。
序
絶え間ないイノベーションの継続
<東大阪地域経済の歴史>
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1
湿地帯から全国一の木綿産地へ
先人達の執念と土木技術、発電技術
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2
河内木綿衰退から地場産業の多様化へ
モノづくり技術の伝承者の存在(鋳物師の伝統技)
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3
地場産業の衰退からモノづくり関連企業の増加へ
中進国の台頭による地場産業の衰退と材料技術の革新
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4
モノづくり基盤産業の減少と中核企業の台頭
グローバル化の進展とトップシェア企業の台頭
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5
長寿企業等が示している教訓
徹底した顧客主義と絶え間ないイノベーション
第1話
東大阪モノづくりの原点
大陸から技術・文化が伝わった
2400年ほど前に大陸から稲作と金属器が伝わりました。これらの技術をきっかけに400年の間に弥生文化を生みました。
東大阪市にある弥生町という地名は、弥生土器が出土して名づけられました。弥生町の周辺に鬼虎川遺跡があります。遺跡から青銅器を作る鋳型が出土したことから、最先端技術の青銅器鋳造所があったと思われます。東大阪モノづくりの原点です。鋳型は銅鐸を作るためのものでした。
古代の鋳型から銅鐸を復元
モノづくりの技術に注目した
古代の鋳型を現代技術で再現して銅鐸を復元することが2011年になされました。その取り組みに挑戦したのが上田合金株式会社でした。
社長の上田富雄さんは、「技術的には現代よりも2000年前のほうがすごい。古代の職人やモノづくりの原点を理解してもらいたい」との思いを中学生に伝えるため、復元した銅鐸を市内の全中学校に寄贈しました。
第2話
河内のあけぼの 河内廃寺
河内廃寺は四天王寺伽藍とほぼ同じ配置で百済定林寺がお手本になったといわれる遺跡です。
廃寺北側の皿池遺跡に郡衙(8〜12世紀)がおかれた地方の役所で、税の徴収、戸籍の作成等を担う機関があったとされています。
河内郡では条里制がひかれ、百済からの渡来系氏族、河内直等が支配し遣唐使等に任命されていた。現在地名に残る四条町、五条町はその名残です。
第3話
東大阪の成り立ち
東大阪市はもともと旧大和川下流域
第4話
インフラ(生活、産業)の基盤づくり
中甚兵衛が1704年大和川付け替え工事を完成させ、農作地の大幅増加に貢献しました。
工事許可は幕府から下りず、新大和川沿いの農家の反対で親子三代事業に。工事期間は僅か8か月間で完成しました。
この功績により、中甚兵衛は苗字帯刀を許されました。柏原市に銅像、東大阪市川中に顕彰碑が建てられています。
第5話
鴻池善右衛門宗利
初代鴻池正成は江戸で両替商。大名貸として債務を履行のため、財政再建人材を派遣。酒造も営みました。
三代目宗利は家業を発展させ、諸国32藩と取引、河内国若江郡に鴻池新田会所をおき、新田開発の中心となりました。
大和川付替後に河内平野は40分割され、庄屋、寺院、豪商により新田開発が進められ、鴻池家は1,170町歩の内、200町歩を占め、240年間経営者が変わらず続きました。
第6話
山澤保太郎
嘉永6年(1853)、下小阪村の山澤家に生まれた。山澤家は代々の大庄屋でありますが、保太郎氏は小作料を集めるだけに終始せず企業興しを実践しました。
明治28年(1895)、日本カタン糸㈱社長に就任。その後、大阪府農工銀行の設立委員、同38年に山澤共同酒造場を設立しました。
明治43年(1910)、大阪電気軌道㈱の監査役に就任。この時期に石川市兵衛氏との親交が生まれ、その縁は孫の時代に会社を設立することになる。株式会社カツロンを参照ください。
第7話
大阪砲兵工廠
陸軍の直轄で火砲、弾丸を製造した。明治5年に初めて大砲を鋳造生産しました。大阪城の周囲に立地し、東大阪市域の西端より直線3kmの位置にありました。
従業員は機械、金属、その他の生産技術を習得して独立創業しました。
株式会社ロブテックス(明治21年創業)
株式会社神山鉄工所(大正8年創業)
昭和20年8月14日深夜から15日未明の大空襲で壊滅的な被害を受けましたが、被害率は約60%で、約4割の機械類は使用可能なものとして残り、戦後、民間へ払い下げられました。
株式会社五力工業(昭和26年設立)
第8話
大阪電気軌道株式会社
明治43年4月に創立した奈良軌道株式会社は、翌月に大阪電気軌道株式会社に社名を変更し、大正3年4月30日に上本町、奈良間が開通しました。
大阪電気軌道㈱(近畿日本鉄道㈱の前身)は電鉄経営の傍ら、電力の供給を始めました。生駒山西麓の水車を使っていた伸線業者はその電力を積極的に取り入れました。
株式会社澤田工業所 を参照ください。